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生活の中にある器

ヘスアルド・フェルナンデス・ブラボ/丹羽あかね

職人のような作業

 陶芸を好きな人ならご存知だとは思うが、近年、日本の有名な陶芸の産地には、海外から多くの人たちが焼き物を学びに来ている。そう、日本は陶芸大国と言われている。 そんな海外からの一人である、ヘスアルド・フェルナンデス-ブラボさんはスペイン出身。器に惹かれ、日本にやって来た。

 彼は日本に来た当初、陶器を創作していた。しかし彼の作品は、アート性を色濃く含み、エッジが鋭い作品を好んだ。そのため、材質に固い素材を選ぶようになった。より硬質な素材を求めた結果が、現在の“磁器”いうスタイルとなった。

 ヘスアルドさんの磁器の制作過程は、陶器を作るような荒々しさとは一線を画す。作品はフラットな面を多く持ち、鋭利なエッジが効いたものが多い。  彼は作品の一つ一つを、のこぎりの歯裏などを使い、丹念に削っていくのだ。その仕上げの過程は、採算が取れるのかと思える程丁寧な仕上げ方である。それは、日本の“職人気質”という言葉さえ思い出させる。

 けれども、そんな反面、大きな体で、コリコリと器を削る姿はどこか愛嬌がある。そう、彼は見た目からは想像できないほど、優しく、友好的なのだ。僕らのこのサイトに一番に賛同してくれたのは彼だと言ってもいい。ヘスさん達の器を紹介させて欲しい、そんな初めての会話に、彼は“もちろん”という言葉を“体全体”で表現をしてくれた。海外の人はどうして、ここまで人に優しくなれるのか…。彼を見るといつもそんな事を考える

創り手がボーダレスになったとき、
​その器もボーダーを越える

 そんなヘスアルドさんと同じ工房で、“陶器”を作っているのが、奥さんの丹羽あかねさんである。彼女の作品はヘスアルドさんの作風と、対極にある。大胆なフォルムの中に、特有の柔らかな色を持つ。パステルを幾度も重ね塗りしたような色合いは、何年も丁寧に育んできた時間を想像させる。器は土の色と、釉薬の発色によって独特の存在感を持つが、彼女の作品からはそれをもう一度学ぶ事ができる。彼女の想いが作品に反映されているのだ。そんな想いはふとした会話の中で表れた…。

 僕らが訪れた時に彼らは昼食を振る舞ってくれた。家の前に広がる風景を横に食べる食事は格別だった。その席が盛り上がった頃、あかねさんはとつとつと家族の話を始めた。彼女には海外で彫刻の作家をしている仲の良い兄がいるという。その兄と同じ創作活動をしているのに、作る作品について意見が合わなくなった事があった。

 それは芸術家の兄が、生活の中の見出す創作と、芸術の創作とは全く違うと言ったことが原因だった。兄の言葉にあかねさんはもやもやとした気持ちが膨らんだ。お互いに違うことをしているのは理解している。それでも生活と共にあるもの“こそ”、どれくらいの技術、デザイン性、想像力、そして労力を必要とするか、理解してくれていると思っていたからだ。仲の良い兄妹の一瞬のすれ違い…。しかし無骨な二人はそれ以上そこには触れて話す事はなかったようだ。

 その後も兄の言葉を意識し続けているあかねさんの想いは、明らかに作品に投影されている。

彼女は「アートでは作り得ない器」を模索し、“創り”続けている。

 例えば、創作過程でそれは見受けられた。それは、“彼らは同じ窯で器を焼く”という事。 これを聞いて「ありえない」そう思う陶芸家もいるはずである。当然の事ながら、本来、磁器と陶器は焼き方が異なる。当然、温度の善し悪しも異なる。圧倒的に違うのだ。


 ならば、なぜ同じ窯で焼くのか―? 

 

 例えば、彼らがそれぞれの文化を楽しむように、彼らの作品にも、その交流を楽しませているのだと僕は思った。

彼らは火を入れる窯の中で、磁器にいい場所と、陶器にいい場所を探し、混在させて焼く。その結果、不思議な色合いをお互いの作品が持つようになる。

磁器、陶器には無い色合い、滲み具合を持っているのだ。例えば、ヘスアルドさんの、ふわっとした線の感じなどは、同じ窯で焼いてこそ現れたものだ。

 作家の作品の面白さは本来どこにあるのか―。
それは、これをしなければならないという、絶対がない事ではないだろうか。偶然を楽しむ力、それこそが、魅力となるのだ、と僕は考える。
  この2人がこれから、どれくらいお互いの作品に影響し合い、反発しあうのか、楽しみでならない。きっと2人が越境を続ける限り、新しい作品が日々生まれるのだろう―。 

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